5月の連休明け早々、現在勤務する越南関連ベンチャー企業(G.A.コンサルタンツ㈱)で緊迫した業務遂行を終えて出張先の大阪で明石焼きを摘みつつ、泡盛を傾けていた時に編集長のAnh竹山より原稿依頼が御座いまして僭越ではございますが雑文を寄稿させて頂きます。
今回は、V科入学から留学そして卒業後入社したCtyBộtNgọtでの新入社員時代についての思い出を。同時代の方は懐かしみ、現役世代は西ヶ原時代を感じて頂ければと。
小泉元首相やノーベル賞の小柴博士を輩出した神奈川県立横須賀高等学校で楽しすぎる。高校生活を満喫して予定通り駿台予備校に進学。ベト健の基礎学問である酒を覚え、横浜の居酒屋三昧な浪人生活で体重を一気に25kg増やしての受験。しかし当時は英語さえ出来れば受かりましたから帰国子女である特権を活かして外語大は軽ーく合格したはずです。そしていざ巣鴨・西ヶ原の杜へ。
92年は東南アジア語学科創設元年。カンボジア、ラオス語新設の年。我がV科はCa科と合同でベトカンズとして入学。先生方のプレゼン後に選択するスタイルで、5名くらいがCa科に分かれていきました。伝統のボート大会にベトカンズとして参加。毎日戸田公園で練習しちゃ、協和発酵(現アサヒ)の「大五郎」なる大ボトル焼酎を浴びるように飲んでカラオケに行き騒いで、西ヶ原周辺の下宿している友人の家を泊まり歩いてました。尾崎豊が突然この世を去った日もカラオケ中に知り、みんなで追悼したのを覚えています。(携帯もなくリアルタイムに事件を知る手段なかったなー)
1年生の料理店、2年生の語劇も皆団結した楽しい思い出です。料理店はV科教室をそのまま使用していた為、10月くらいから飾りつけを開始してメコンデルタ風な部屋に仕立てました。日テレ「ズームイン」のラスト数秒に社屋外を写してくれる場面があり、外語祭当日はアオザイやベトコン服で出向き宣伝しました。語劇は、名作KimVânKiềuを独自アレンジして苦労しつつ何とか上演出来ました。確か台風で講堂の屋根が飛び、仮設で体育館でやった気がします。
大事な勉学ですが、宇根先生・川口先生・今井先生そしてチャイン先生に加え、サイゴン出身のフエ先生の授業を受けていましたが、2日酔い、3日酔いで頭に入らず、2年生になってもキチンと会話できない自分に情けなくなり94年にハノイへ留学。
当時留学する為にも私費でハノイに行った先輩おらず、どのようにビザ手配していいものやらよく分からず困惑したものです。川口先生からハノイ総合大学に申請して頂いたが、先方から返事もこない為、渋谷のベトナム領事館に何度もビザ発給確認に行きました。春休み中に行く予定にしていたが、中々ビザが出ない。ある日いつものように領事館窓口に行き、「chưa có 」とあっさり言われたのだが、棚の奥にいつも確認していないファイルを発見。自分で探させてとそのファイルを見ると、数週間前の日付に許可された自分の名前を発見。「Trời ơi」てな感じでやっとこ河内への留学がスタートしました。
Bách khoa エリアのA2なる西側諸国からの留学生を集めた宿舎に逗留しました。隣にはA3なるカンボジア留学生の寮、そしてB7なる露・モンゴル留学生の寮。ハノイに来たもののBia Hơi 三昧で中々語学に身が入らなかったが、蒙古人と飲み歩いたり、露人と中部までバスツァーに行ったりと楽しい日々でした。停電は良くするし、洪水も日常的。夜10時になると中心街でもほとんど人がいなくなり夜12時くらいだと、Hoàn Kiếm からBà Triệu を通りĐại Cồ Việtまでの帰路で不良外人にしか会わない時代でした。
外国人への部屋賃貸が初めて許可された頃で、A2から脱出して近所で一人暮らしをしました。近所の方や子供達には珍しい外人がいると良く冷やかされたものです。言葉通りの遊学でしたが、Nam Định省百穀社で日本のベトナム研究者の農村調査があり、そこに参加したのが唯一の真面目なシーンで、刺激も受けました。
そんな自由な日々も終わり、いよいよ社会に出て行く日が来ました。CtyBột ngọt(Mì chính)。97年4月1日入社式を終え、さー呑むぞと思ったら、ベトケンだけ人事部から呼び出し。何か悪事がばれたのかドキッとしつつ個室に入ると、7月からインドネシア駐在との内示。入社直ぐの海外赴任辞令は、外大生冥利に尽きるという思いと、なぜベトナムじゃないのかという思いが交錯しているうちにジャカルタに着いちゃいました。
ネシア科出身者には失礼ながら、V語と比べなんて発音しやすく、覚えやすい言葉でありましょうか。怠惰なベト健もあっという間に話せるようになりました。Selamat pagi。ネシア語を学びながらジャワ島中の市場を廻りBột ngọtを売りました。明るいインドネシア人スタッフと毎日激論しながら拡売に邁進した新人時代でした。97年はアジア通貨危機でしたが、一番ダメージを被ったのがインドネシアでした。スハルト長期政権が倒れる直前、ジャカルタで大暴動が起きて街中焼け落ちてしまい、大混乱のスカルノハッタ空港から日本政府特別機(と言っても航空券代金有料)で緊急帰国したのは今となってはいい経験だったと言えますが、その当時は結構恐怖を感じたものです。
さて、長文乱文になりましたのでここらで筆をおきます。次回チャンスがあれば、CtyBột ngọtでのベトナム全省行商した駐在時代から転職して越南ベンチャーをしている最近の話しをさせて頂きたく。
ベトケンよりベト科に愛をこめて。
*越南ネットの愛読者は、ベト健が昨年8,9月号にも登場しているのを記憶されているかも知れませんね。そうベトフェス08関連記事で。今年もやりますからぜひ皆様会いましょう。(詳細は追って)
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