2008年7月1日火曜日

お便り-山口隆之(V77卒)


東京医療センター外科病棟 にて
協賛:当センターきっての売れっ子看護婦 (匿名希望)

山口先輩から、お便りを頂けたのは嬉しい限りです。3月8日(土)は、ベト科卒業生が“いざ、府中!”を目指した訳ですが、遠くから駆け付けてくれたOB、仕事を休んで這って来たOG、バイトシフトを調整して合流した現役生と、参加者それぞれのドラマがあったはずです。山口先輩は、闘病中の身でありながら、医師から外出許可を得て、駆け付けてくれた一人です。少し哲学的になりますが、個々の人生は、当然、それぞれ異なるのですが、共通して言える事は、「みんな、Happyになりたい!」と願っているはず。Happyって何かは、誰も決めてくれないから、自分でHappyになれるように頑張るしかないし、馬鹿みたいに単純に頑張るのも疲れるから、自分のHappinessとは何か?と定義する必要がある。山口先輩のお便りを読んで、「竹山なんか、もっと、My happinessに対して頑張らんといかん!」って思ったし、そんな動機を与えてくれた先輩に感謝です。では、私の前置きはサテ置き、まず、山口先輩製作のホームページ⇒⇒⇒を見てから、お便りの熟読へとステップして下さい。一風変わったHPに、度肝抜かれますよ。(文責.竹山正人)


<山口隆之さんからのお便り>
ホームページ 「絵で翻訳するベトナム」作成までの道

3年前に癌で大腸を半分切り取られたとき、人間五十年、そろそろ人生の卒論の提出期限かと, 各地で画いたスケッチと目にしてきたベトナム関係の古書をまとめたホームページ<絵で翻訳するベトナム  ⇒⇒⇒> を作成した77年卒の山口です。いまも抗癌剤治療のため入退院を繰り返しており、今年の3月8日の宇根先生の退官パーティーには、病棟の外出許可を得てもらって参加しました。当日集まった卒業生、在校生は総勢150名。西ヶ原時代は先輩諸氏全部集めても50人とはいかなかったでしょう、今回の人数、華やかさには圧倒されました、幹事の皆様ほんとうに御苦労さまでした。この便りでは、最初から作ることを目指した訳でなかったこのホームページが、出来てしまったまでの話を御紹介します。

70年代、当時の辞書と言えば、ベトナム戦争の米兵相手の<越-英>と、中国の <越-漢>辞書くらいでした、竹内先生が辞書を完成されたのが卒業後何年かしてからでした。辞書が無かったことは自分自身への格好のさぼりの理由でした。音楽好きの私は、授業には目もくれず、ひたすらオーケストラでチェロやコントラバスを弾いてました。今でも<チェロ弾き豪酒>名でメールを送ると、当時を思い出してくれる人々がいます。音楽三昧の当時、絵はまったく画いてませんでした。卒業後、ベトナム出張時、楽器を持っていくより軽いスケッチブックがきっかけでした。

とは言うものの、卒業時の1977年は、その2年前にサイゴンが解放されたばかりでハノイの街には公安の目が光り、人々は夕方になると通りに面した灯を消し、夜はひっそりと真っ暗。ぼくら外国人、日本の商社仲間はホータイに突き出たタンロイホテルに詰め込まされ四方八方から、さらには真下の湖面からも監視されていました。街中でカメラのシャッターをきるのもいちいち付添いの公団の通訳に確認し公安の目を気にしていた時代で、絵を描くなんてなんかとんでもない時代でした。

そのうち、ドイモイの少し前だったでしょうか....街中で、外国人相手と言わないまでも、トイレも一応あり片言のベトナム語で通じる飲食店が出来始めました。ホテルの部屋で日本人町の角屋七朗兵衛や茶屋七郎次郎の話を肴に呑のんでいた酒瓶をかかえ、おそるおそる街中に出始めました。コムビンザンも少しずつきれいになり一人でもビールを呑みに行けるようになってきました。またそのころ、仕事上も面倒な手続きだった“移動許可証”がなくなり、地下資源など重要なサンプルを持ち帰るときに必要な“見本品輸出許可証”が消えて行きました。鉱産物なども担当している私にとっては地方出張の仕事などずいぶん楽になりました。現在とちがってメールなどなくリアルタイムで日本から縛られてはいないので、一度地方に出れば、土日以外ウィークデーでも自由な時間ができるようになりました。出張した地方の先々で歓迎の酒宴に招かれ、ひたすら呑んでは返礼に、帰り道などでスケッチするのが楽しみになりました。

例えばバクダン河のファズンのフェリー乗り場。ハロン湾に伸びる奇岩群の間に落ちてゆく夕日は、キャンファの町で泥まみれでの顔で出迎えてくれた炭鉱の幹部たちと呑んだあと、ハノイまで帰る途中で絶好のスケッチポイントでした。しかし、いつのまにか台湾のセメント会社が絶景の地点にプラントとを建て楽しみをぶちこわしてくれました。

変わってしまったと言えばサイゴンのレックスホテルから見えるマリアカテドラル。味のある周辺の木が消えてビル群が立ちならびました。さらにはレックスの宿泊料。昔、フランス語とベトナム語だけのレストランのメニューを日本語に訳していたころ一泊US50前後だったのが今はUS200以上。1984年のリニューアル以降20年近く定宿としてましたが、敷居が高くなりすぎました。

一方、古書について言えば、たまたま勤めていたのが三菱系の共産圏専門会社が丸の内にあり、日比谷公園の都立図書館のすぐ近く。 帰国中は、周りの目を盗んでは中央区の月島図書館などに足を運び <朱印船> <安南> <仏印>と検索して出てくる本を読み漁ってました。商社マンだったので、朱印船時代の尾張、松坂商人がホイアンと行き来し富を築いた話は興味深く、大航海時代の資料を求めて伊勢神宮の徴古館にも足を運びました。

振り返って見ると、絵も古書もひたすら勤務時間から自分の趣味の時間を盗みだしてきた賜物のようです。30年くらい我慢して一つの世界にいるとボーっとしていても結構そこそこのものがたまるのかな? と言うのがホームページが出来た後の実感です。

余談ですが、今の癌治療は大したもので、かなり進んだ癌ですが、外観上は写真の通りちゃんとします。ただ体力が落ちているので会社勤務は少々つらく、昨年9月から休職扱いにして頂き病室に送受信が出来るE-mobile付ノートパソコンと、サイゴンで買い込んだ辞書を持ち込み、昔覚えたビジネス用語を思い出しながらで知人や翻訳会社からの原稿を翻訳してます。

もと勤務していた三菱系商社が日本の基幹産業、業界とベトナムとの窓口になっていたのでいろいろな業界、産業の言葉を覚えるチャンスはあったのがここにきて少し幸いしているようです。おかげで、気を紛らしながらの日々を過ごせている今日このごろです。皆様のご健勝とご活躍を祈りつつ。朱印船、日本人町、そして大航海時代の本を肴に呑みすぎた大後悔の人生の卒論でした。 





お便り-小嶌周(V02卒)


小嶌君と私は、因縁の関係にて均衡しています。私が、西ヶ原4年生だった時に、彼は、新入学生として西ヶ原に登場しました。その頃は、私も先輩顔して、「かわいい後輩だなぁ」くらいの認識しか持っていませんでした。詰めが甘かったです。あの時、芽を摘んでおけば・・・と悔やまれます。小嶌君が、ベト科を卒業し、私と同じヤマハ発動機㈱に入社してきたのは、2002年4月のことでした。その頃の私は、V科先輩として、ヤマハ本社にて、ベトナム営業を担当していました。見栄張りな私は、世間的には、バリバリ猛烈デキル社員を演じていましたが、社内では、東外大越語学科卒の履歴を隠しきれず、ボロボロ社員でした。出張する度に、駐在員の期待をザクザクと裏切り続けた訳です。「おい、竹山君!先月から一緒に住むようになった女房の方が、ベトナム語うめぇ~ぞぉ!」その時、既に、反論する余地なしです。入社4年目にして、デキル後輩(Mr.小嶌)の入社を契機に、私は、海外営業の職を捨て、調達課への異動を懇願し、逃げ切る!っといった行動をとった訳です。小嶌君が入社式を迎えた日、私は、“飛ぶ鳥、跡を濁さず”の格言の如く、調達統括部へと異動しました。それだけ、私は、彼の存在に脅え、留学経験の有るベト科後輩の内定ゲット情報にQuick Responseをとった訳です。今、振り返っても、自分の即決判断に後悔はなく、彼にベトナム営業を譲ったのは成功だったと思っています。それ程、小嶌君は、私の人生を左右させた存在なのです。小嶌君のWeapon(脅威、武器)に関して、彼は、お便りの中でも一切語っていません。「脳ある鷹は、爪を隠す」ということか?(文責-竹山正人)


<小嶌周さんからのお便り>
越南ネットをご覧の皆様、こんにちは(はじめまして)。2002年V科卒の小嶌周(コジマアマネ)と申します。現在、静岡県磐田市在住、同市に本社を持つ、ヤマハ発動機に勤務しております。私の大学時代から現在に至るまで、以下駄文となりますが、お付き合いをいただければ幸いです。

昔から、「大きな夢に向かって努力」とは縁遠い性格ですので、大学受験時に、ベトナム語学科を志望した動機が、特別あったわけではありません。ベトナム語選択は“"縁”でしょうか・・・。ただ振り返って思えば、漠然と抱いていた外国への憧れ、とはいえ、当時の私の頭の中の世界地図といえば、東は日本、西はインドまでが、せいぜい想像力の及ぶ範囲でしたので、経済成長著しいASEAN諸国ののびやかな空気に憧れを抱いていたような気がします。これが、ベトナム語を選択した理由です。

このような感じで入学したものですから、学生時代は、西ヶ原の学生たちの国際的な雰囲気(帰国子女、留学生etc)にカルチャーショックを受け続けた4年間でした。学業に関しては、ベトナムに対する物珍しさもあり、楽しい学生生活を送ることができました。先日、宇根先生の退官パーティに出席させていただき、貴重な先生の経験を伺い、「できの悪い学生ほどかわいい」「卒業して数年後、教え子たちは誰も見違えるほど、立派に成長している」という一言一言に、お世話になった先生方への感謝の気持ちを感じました。

学生時代に、1年間のハノイ留学をしました。2001年の事です。正直、初めての海外生活でしたし、その経験を通して、「まぁ、海外でも、何とかなるぁ~」という自信を持つことが出来た点が、留学で得た財産です。いろいろな国の友達、また社会人との出会いは、帰国後に控えていた就職活動に大きな影響がありましたし、自分の個性をアピールする上でも、非常に助かりました。最終的に、就職先として、竹山大先輩が勤務するヤマハ発動機㈱にしました。その当時は、竹山さんのことは、知りませんでしたが・・・。ヤマハ発動機に決めた理由は、ご存知のとおり、ベトナム=バイクと言える程、輸送手段としてバイクを利用するお国柄です。ベトナム→バイク→製造業→モノ作りの自然の流れで、日本経済を支えてきた、モノ作り大国の中枢に身を置きたかったためです。

入社後の簡単な経歴ですが、 バイク同様、走りっぱなしです!
2002年4月 入社
2002年6月 ヤマハ発動機 営業部ベトナム担当
2004年7月 ヤマハモーターベトナム赴任(2年間)
2006年11月 現職(ヤマハ発動機 営業部インドネシア担当)
入社以来、東南アジア畑一筋に、外大V科として王道を歩んでいると思っています。

現在の仕事内容は、愛着あるベトナムからは外れ、インドネシアを担当しています。本社海外営業の仕事内容は多岐にわたります。インドネシアには製造・販売拠点がありますが、現地市場に向けた商品の企画~開発~製造~販売~アフターサービスまで、本社としてできることはすべて目を向けなければなりませんし、すべてにタッチしています。インドネシアは世界最大のバイク市場(2008年6月現在)であり、幸い、当地において弊社のブランドイメージは非常に高く、商品、サービス、プロモーションともに多くの方に愛されております。現在、弊社は最大手のホンダさんに次ぐポジションにおり、今後ますますの市場シェア拡大・最大収益の確保を目指しております。入社以来、営業の仕事に携わっていますが、ヤマハ仕事の面白い処は、経済発展の著しいアジアマーケットに於いて、自分のアクション(施策)が、販売量の伸びとなって反映されることが、最もダイナミックです。例えば、私がベトナム赴任開始した2004年は、10,000台/月の販売規模が、赴任最後の2006年には、40,000台/月と伸長しています。そして、今も、伸長を続けています。すべてが、自分のアクションでないのは確かですが、そういった市場(環境)にて、営業マンを遂行できることに仕事の醍醐味を感じます。

今後の夢ですが、仕事とプライベートをともに楽しみ、自分らしく歩んでいきたいと思っています。最後になりますが、先月号で活動が紹介されました、ベト科東海支部に私も参加させていただいています。今後ますます、盛り上がりをみせる(?)ベト科東海支部をよろしくお願いします。Don't miss it! 


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お便り-市川絵里(現役4回生3年)


←中央赤シャツピースっ娘が市川絵里さん
←最上段左は、今井先生!

今日、この時に、東京外大ベトナム語学科を目指している高校生はどのくらいいるのかな?まだまだ、先の話になるけど、秋になり、年を越えてセンター試験が近づくと、受験生も進学先を真剣に考えるだろうし、その御両親も息子、娘の進学先の情報を収集する時がくると思うのです。彼らは、きっと、Google検索で、「東京外大 ベトナム」って入力するだろうし、この越南ネットを見つけると思うのです。越南ネットは、現役生&卒業生のネットワーク構築に主眼を置いてきましたが、未来の後輩達へのメッセージにも成りえるツールであると確信しました。そんな越南ネットに今回、登場するのは、なっなっなんと、現役生なんです。元気◎の市川絵里さん。通称、イッチー。裏の世界では、ヨコヅナと崇められ、今、OBOGが最も恐れる核弾頭娘なんです。彼女からのお便りの末尾に、近々、ベトナムに行くよ!との宣言がなされています。分かるよね?ハノイのみんな!今から酒盛りの準備をしといたほうがいいよ!(文責-竹山正人)


<市川絵里さんからのお便り>
ベトナム語科四回生三年の市川絵理です。越南ネット在校生初ということで緊張していますが、少し私の話をさせていただこうと思います。

どうしてベトナム語を選んだのか?先輩方をはじめ、友人や初対面の人に必ず聞かれる質問です。正直言って、いつも返答に困っています。私は、ベトナムに興味があってベトナム語を始めたわけではありませんでした。外語大を選んだのも、ベトナム語を選んだのも、先生に薦められて“なんとなく”というのが本音です。“なんとなく”で選んだベトナム語でしたし、実際大学一・二年はあまり真面目には勉強していませんでした。旅行でベトナムに行っても結局英語で会話という、情けない状況でした。さすがにその後すぐは反省して、ベトナム語真面目に勉強するぞ!と思うのですが、結局その場だけ。そんな私でしたが、せっかく外語大に入ったし、もともと留学や外国での生活に漠然とした憧れがあったので、ベトナムへの留学を二年生の夏ごろから真剣に考え始めました。留学したらしゃべれるようになるのではないかという安易な考えもあり、結局去年度一年間ハノイに留学しました。

ベトナム留学中は週5回、ハノイ国家大学のベトナム語科で、個人レッスンを午前中に2時間から3時間受けていました。週3回は会話と文法を、週2回は自分の興味のある新聞記事や雑誌の記事を解説してもらっていました。つまり学校は午前のみ。留学経験のある先輩方に聞いてはいましたが、驚くほどに暇でした。あまりにも暇だったので、ベトナム人にならって、ムダにホアンキエム湖のまわりをぐるぐる回っていました。友達もなかなかできず、頼れる人も近くにいなかったので、不安になり寂しくてホームシックにかかってしまいました。そんな私を救ってくれたのは、ハノイで働いている外語大の先輩方でした。日本食をご馳走していただいたり、ハノイに暮す日本人の方々を紹介していただいたりしました。また、外語会を開いて私達と同年代の大阪外語や神田外語の留学生とつながりを持つ場をつくってくれました。そういった出会いの機会をつくってもらったおかげで、だんだんとハノイでの生活にも慣れていきました。

慣れてしまった後は、ハノイでの生活を満喫しました。ベトナム人の友達にホーチミン廟・旧市街、といったハノイの名所を案内してもらったり、ベトナム家庭料理を教えてもらったり、日本人の友達と食べ歩きをしたり、カフェでおしゃべりしたり、ビアホイにいったり、ハノイウォッカやサソリ酒をのんだり、犬肉を食べたり・・・・。もう食べて飲んでばかりをくりかえしていました!その結果留学中に5キロも太ってしまいました。

留学をして、感じたこと。それは、言語の大切さです。その国の言葉で、その国の人と付き合うことは、本当に難しくおもしろいものでした。言語を習得して初めて、そこに住む人の文化や考え方がわかるのだと思いました。留学をしたことで大切な人たちと出会い、様々な経験をして、外見だけでなく中身も一回り大きく成長できました。留学を考えている後輩は、ぜひ留学して欲しいです。でも食べ過ぎと飲み過ぎには注意してくださいね。

ベトナム語を選んでよかった。きっかけは“なんとなく”でしたが、今は本当にそう思っています。ときどき嫌なこともありましたが、私はベトナムが大好きです。将来はベトナムと関われる仕事に就ければと考えています。そしてベトナム語科も大好きです!楽しい同期と優しい先輩方、かわいい後輩と素敵な教授に囲まれて、充実した毎日をすごしています。

日本も楽しいのですが、やはりベトナムが恋しくてしょうがありません。なので、9月の始めにはハノイに行こうと思っています。ハノイにいらっしゃる先輩方、そのときはぜひお会いしましょう。


そして、ここで宣伝をひとつさせてください。11月の外語祭で、3・4・5回生の有志で料理店を出します。東京近郊に住んでいる先輩方、ぜひ遊びに来てください!1年生の料理店、2年生の語劇のほうもよろしくお願いします。日にちは11月20日(木)~24日(月・祝)です。

府中市の多磨駅前というへんぴなところに大学が移転した後も、私達学生は教室で飲み会をしたり、先輩・後輩と縦飲みをしたりと楽しく過ごしています。先輩方、そんな後輩達をこれからも見守ってくださいね。

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