東京医療センター外科病棟 にて
協賛:当センターきっての売れっ子看護婦 (匿名希望)
山口先輩から、お便りを頂けたのは嬉しい限りです。3月8日(土)は、ベト科卒業生が“いざ、府中!”を目指した訳ですが、遠くから駆け付けてくれたOB、仕事を休んで這って来たOG、バイトシフトを調整して合流した現役生と、参加者それぞれのドラマがあったはずです。山口先輩は、闘病中の身でありながら、医師から外出許可を得て、駆け付けてくれた一人です。少し哲学的になりますが、個々の人生は、当然、それぞれ異なるのですが、共通して言える事は、「みんな、Happyになりたい!」と願っているはず。Happyって何かは、誰も決めてくれないから、自分でHappyになれるように頑張るしかないし、馬鹿みたいに単純に頑張るのも疲れるから、自分のHappinessとは何か?と定義する必要がある。山口先輩のお便りを読んで、「竹山なんか、もっと、My happinessに対して頑張らんといかん!」って思ったし、そんな動機を与えてくれた先輩に感謝です。では、私の前置きはサテ置き、まず、山口先輩製作のホームページ⇒⇒⇒を見てから、お便りの熟読へとステップして下さい。一風変わったHPに、度肝抜かれますよ。(文責.竹山正人)
協賛:当センターきっての売れっ子看護婦 (匿名希望)
山口先輩から、お便りを頂けたのは嬉しい限りです。3月8日(土)は、ベト科卒業生が“いざ、府中!”を目指した訳ですが、遠くから駆け付けてくれたOB、仕事を休んで這って来たOG、バイトシフトを調整して合流した現役生と、参加者それぞれのドラマがあったはずです。山口先輩は、闘病中の身でありながら、医師から外出許可を得て、駆け付けてくれた一人です。少し哲学的になりますが、個々の人生は、当然、それぞれ異なるのですが、共通して言える事は、「みんな、Happyになりたい!」と願っているはず。Happyって何かは、誰も決めてくれないから、自分でHappyになれるように頑張るしかないし、馬鹿みたいに単純に頑張るのも疲れるから、自分のHappinessとは何か?と定義する必要がある。山口先輩のお便りを読んで、「竹山なんか、もっと、My happinessに対して頑張らんといかん!」って思ったし、そんな動機を与えてくれた先輩に感謝です。では、私の前置きはサテ置き、まず、山口先輩製作のホームページ⇒⇒⇒を見てから、お便りの熟読へとステップして下さい。一風変わったHPに、度肝抜かれますよ。(文責.竹山正人)
<山口隆之さんからのお便り>
ホームページ 「絵で翻訳するベトナム」作成までの道
3年前に癌で大腸を半分切り取られたとき、人間五十年、そろそろ人生の卒論の提出期限かと, 各地で画いたスケッチと目にしてきたベトナム関係の古書をまとめたホームページ<絵で翻訳するベトナム ⇒⇒⇒> を作成した77年卒の山口です。いまも抗癌剤治療のため入退院を繰り返しており、今年の3月8日の宇根先生の退官パーティーには、病棟の外出許可を得てもらって参加しました。当日集まった卒業生、在校生は総勢150名。西ヶ原時代は先輩諸氏全部集めても50人とはいかなかったでしょう、今回の人数、華やかさには圧倒されました、幹事の皆様ほんとうに御苦労さまでした。この便りでは、最初から作ることを目指した訳でなかったこのホームページが、出来てしまったまでの話を御紹介します。
70年代、当時の辞書と言えば、ベトナム戦争の米兵相手の<越-英>と、中国の <越-漢>辞書くらいでした、竹内先生が辞書を完成されたのが卒業後何年かしてからでした。辞書が無かったことは自分自身への格好のさぼりの理由でした。音楽好きの私は、授業には目もくれず、ひたすらオーケストラでチェロやコントラバスを弾いてました。今でも<チェロ弾き豪酒>名でメールを送ると、当時を思い出してくれる人々がいます。音楽三昧の当時、絵はまったく画いてませんでした。卒業後、ベトナム出張時、楽器を持っていくより軽いスケッチブックがきっかけでした。
とは言うものの、卒業時の1977年は、その2年前にサイゴンが解放されたばかりでハノイの街には公安の目が光り、人々は夕方になると通りに面した灯を消し、夜はひっそりと真っ暗。ぼくら外国人、日本の商社仲間はホータイに突き出たタンロイホテルに詰め込まされ四方八方から、さらには真下の湖面からも監視されていました。街中でカメラのシャッターをきるのもいちいち付添いの公団の通訳に確認し公安の目を気にしていた時代で、絵を描くなんてなんかとんでもない時代でした。
そのうち、ドイモイの少し前だったでしょうか....街中で、外国人相手と言わないまでも、トイレも一応あり片言のベトナム語で通じる飲食店が出来始めました。ホテルの部屋で日本人町の角屋七朗兵衛や茶屋七郎次郎の話を肴に呑のんでいた酒瓶をかかえ、おそるおそる街中に出始めました。コムビンザンも少しずつきれいになり一人でもビールを呑みに行けるようになってきました。またそのころ、仕事上も面倒な手続きだった“移動許可証”がなくなり、地下資源など重要なサンプルを持ち帰るときに必要な“見本品輸出許可証”が消えて行きました。鉱産物なども担当している私にとっては地方出張の仕事などずいぶん楽になりました。現在とちがってメールなどなくリアルタイムで日本から縛られてはいないので、一度地方に出れば、土日以外ウィークデーでも自由な時間ができるようになりました。出張した地方の先々で歓迎の酒宴に招かれ、ひたすら呑んでは返礼に、帰り道などでスケッチするのが楽しみになりました。
例えばバクダン河のファズンのフェリー乗り場。ハロン湾に伸びる奇岩群の間に落ちてゆく夕日は、キャンファの町で泥まみれでの顔で出迎えてくれた炭鉱の幹部たちと呑んだあと、ハノイまで帰る途中で絶好のスケッチポイントでした。しかし、いつのまにか台湾のセメント会社が絶景の地点にプラントとを建て楽しみをぶちこわしてくれました。
変わってしまったと言えばサイゴンのレックスホテルから見えるマリアカテドラル。味のある周辺の木が消えてビル群が立ちならびました。さらにはレックスの宿泊料。昔、フランス語とベトナム語だけのレストランのメニューを日本語に訳していたころ一泊US50前後だったのが今はUS200以上。1984年のリニューアル以降20年近く定宿としてましたが、敷居が高くなりすぎました。
一方、古書について言えば、たまたま勤めていたのが三菱系の共産圏専門会社が丸の内にあり、日比谷公園の都立図書館のすぐ近く。 帰国中は、周りの目を盗んでは中央区の月島図書館などに足を運び <朱印船> <安南> <仏印>と検索して出てくる本を読み漁ってました。商社マンだったので、朱印船時代の尾張、松坂商人がホイアンと行き来し富を築いた話は興味深く、大航海時代の資料を求めて伊勢神宮の徴古館にも足を運びました。
振り返って見ると、絵も古書もひたすら勤務時間から自分の趣味の時間を盗みだしてきた賜物のようです。30年くらい我慢して一つの世界にいるとボーっとしていても結構そこそこのものがたまるのかな? と言うのがホームページが出来た後の実感です。
余談ですが、今の癌治療は大したもので、かなり進んだ癌ですが、外観上は写真の通りちゃんとします。ただ体力が落ちているので会社勤務は少々つらく、昨年9月から休職扱いにして頂き病室に送受信が出来るE-mobile付ノートパソコンと、サイゴンで買い込んだ辞書を持ち込み、昔覚えたビジネス用語を思い出しながらで知人や翻訳会社からの原稿を翻訳してます。
もと勤務していた三菱系商社が日本の基幹産業、業界とベトナムとの窓口になっていたのでいろいろな業界、産業の言葉を覚えるチャンスはあったのがここにきて少し幸いしているようです。おかげで、気を紛らしながらの日々を過ごせている今日このごろです。皆様のご健勝とご活躍を祈りつつ。朱印船、日本人町、そして大航海時代の本を肴に呑みすぎた大後悔の人生の卒論でした。