2008年9月1日月曜日

お便り-設楽澄子(V96)


設楽さんからの寄稿から刺激を受けた編集部は、農林水産省HPにアクセスし、世界各国の穀物自給率を調べてみました。2003年版が最新でしたが、日本は、125位/175カ国で、ご承知の通りの27%でした。食欲の秋を控えて、心もとない数値です。一方、ベトナムの穀物自給率は、13位/175カ国で、見事な127%でした。8月のWTOドーハ・ラウンドでは、米国、中国、印度、EUらの大国対立で決裂に終わり、日本のコンニャクイモ農家はホットしたけれど、実は、あの時、ベトナムは、「国内インフレ対策で、お米輸出できません!」と重大宣言していた事を思い出す。食料自給率の低い我が国は、ベトナムと仲良くしていかないとマズイです。今後、ベトナムは、農業資源においても、益々、国際的プレゼンスを確立してくると思われます。そんな中、我がベト科OGであります設楽さんの御活躍は、農業における橋(Bridge)between Japna&Vietnam となるべく存在なんです!もー、設楽さん、Great!!!(文責.竹山正人)


〈 設楽澄子さんからのお便り 〉
私は現在、大学院で北部ベトナム農村における経済発展と社会構造の変化について研究しています。大学時代あまり勉学に熱心でなかった私がこのような場に登場すること自体大変気恥ずかしいのですが、せっかくの機会ですので、自己紹介がてら外語大での学生生活と現在の研究について簡単にご紹介したいと思います。

私が西ヶ原の外語大で学生生活を送ったのは91年からの5年間(内1年間はハノイに留学)でした。ドイモイは既に始まっていましたが、入学当初のベトナムは、今のような経済成長や観光のイメージからはまだ程遠く、初めて手にしたベトナム語のテキストは紙質も印字も悪く、心もとないような、懐かしいような気持ちになったのを覚えています。同級生の多くは私のように「たまたまベトナム語を選んだ」人たちでしたが、なかには目的意識を持ってベトナム語を勉強している先輩や同輩がいました。私は、入学後にベトナム難民の方に日本語を教えた経験から、移民や多文化共生などの問題に興味を持ち、国際経済論(伊豫谷先生)のゼミで外国人労働者論や多国籍企業論を学んでいましたが、それとベトナムの勉強をどう結びつけていけばよいのかよくわからずにいました。

漠然と大学生活を送っていた私ですが、94年から95年にかけてハノイへ1年弱留学する機会に恵まれました。当時のハノイはまだバイクも少なく、現在は華やかなショッピングモールも、ドイモイ前のバオカップ(配給など国家による丸抱え制度)時代を彷彿させるような、ガラスのケースの中に商品が陳列されている国営百貨店でした。その一方で、スーパーマーケット第一号店が開店するなど、経済発展が始まりつつあり、先進国から新たな市場として注目され始めているところでした。このように大きく変わろうとしているベトナム社会を、現地の人々の生業や暮らしに寄り添うような形で、総合的、内在的に理解したいと思うようになりました。

卒業後は商社のトーメン(現豊田通商)に入社し、貿易関連の仕事をしていましたが、大きく変わりつつあるベトナムをもう一度じっくり見てみたいという思いを捨て切れず、丸6年勤めた後、「見る前に跳べ」をモットーに一橋の大学院に入学しました。そして修士2年目の2003年8月から再びベトナムへ留学する機会に恵まれました。再び留学したハノイは、以前のくすんだ灰色の町から建設ラッシュに沸くカラフルな世界へとすっかり変わっており、昔の友人宅に行こうとしてもたどり着けないこともしばしばで、浦島太郎のような気分を味わいました。

大学院で私は、農産物の生産と流通から農村社会の変容を捉えていこうと思いました。ちょうどベトナムでは、農薬の多用投与による野菜の中毒事故が社会問題となっており、市場経済に適応するタイプの合作社が「安全野菜」の栽培と流通に乗り出し成長している時期でしたので、「安全野菜」を栽培しているハノイ近郊の農村の経済組織を調査して、修士論文にまとめました。

博士課程進学後は、市場経済化以降生産が伸びている、ジャガイモやタケノコなどの農林産物の生産と流通を、合作社や新たに台頭してきた農村の起業家層、そしてエスニシティに着目して研究を進めています。主要なフィールドはハノイ近郊、バクニン省、ホアビン省などですが、フィールド研究を出発点として、「市場経済とは何か」「経済発展と格差」「食と農のあり方」など、日本の私たちも抱える問題を提起していけたらと思っています。





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